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タラの茎があんなにトゲトゲなのは、タラの芽がよほど美味しいからにちがいない。
新芽の季節になると、山里ではタラの芽をめぐって仁義なき争奪戦が展開する。
春先に軽寺のヤブを拓いたとき、タラを残しておいた。小屋の前の開墾をはじめた畑だから、よもや余人に採られることはあるまいと油断していた。ところが、ある朝、村のオジサンがやってきて、気づいたときには、ほとんどの芽が摘まれてしまっていた。ワー!!
まったく、なんて人だろう!
他人の山にはいってきて、家の前のタラの芽を、採ってくなんて~!!
ひどーい!ドロボーとおなじじゃないか、プンプン。
かなりフンガイした。
いつ摘もうか、いつ摘もうか、と日々楽しみに待っていたところだったので、ひどく落胆もした。
それでもこの春は、てんぷらや味噌和えにして、タラの芽をたらふくいただいた。
昨日の夕方のことだ。
驚いたことにこのところの雨で、芽を欠かれたタラの茎からふたたび新芽がでて、葉を伸ばしはじめていた。
心にふたたび、芽を摘もうかな?・・という思いが芽生えた。
けれど、タラは・・・あんなに無惨に芽を欠かれてしまったのに・・・けなげに耐え忍んで、生きようとしているではないか・・・。
その意思を感じて、手を引っ込めた。
そして、タラの木と、向き合った。
すると、こんな思いが湧いてきた。
開墾をはじめた畑に生えたタラだから、私は自分のもの、と思った。それを村人が採っていったので、悲しみ、憤り、そしてドロボーみたいだとまで思った。
だけど・・・残されたタラの芽は・・・私が採って・・・食べた。
タラの木にしてみれば、村人に採られようと私に採られようと、同じことだ。
誰に手折られようと、タラにとってはひどい痛手であり、苦しく、大迷惑だ。
タラは、村人にも私にも、等しくひどくフンガイしているにちがいない。
・・ったく人間は・・・欲にまかせて情け容赦なく、芽をみんな摘んで持ってってしまうんだから・・・感謝も謝罪も、挨拶さえなしに・・・。わたしにとっては、我が子を奪われるようなことなのに・・・
ほんとにそのとおりだ。
タラから見れば、村人も私も同罪である。
それなのに私は、自分の所有権を主張して、オジサンを非難した。
それって、かなりひどいことじゃないか・・・
愚かな、恥ずべき間違いなんじゃないか・・・
自然は、こんな意識によって、破壊されているのだ。
人は、自然を自分が所有している、と妄想している。
それが、自然を破壊するマインドセットではないか。
私はタラの前に立って、謝罪した。
ゴメンナサイ、タラさん。
あなたのことを、すこしも考えませんでした。
自分のことばかり思って、あなたの痛みを考えませんでした。
ゴメンナサイ、ゴメンナサイ。
するとタラの芽が歌いだした。
♪アナタが ワタシを 食べたから
ワタシは アナタに なりました
アナタはワタシ ワタシはアナタ
そうだ、私たちはひとつ!
タラの芽は、私になった。
アリガトウ、アリガトウ、アイシテル・・・
いま暮しはじめた軽寺の山を、植物の生命あふれる森に還したい、と心から思いました。
**********
私たちはひとつ。
必要なのは自然との和解と調和です。
私たちが環境を破壊するのはそれを知らないから。
その知識を得たら、人は環境を破壊できなくなる。
そんな太陽の智慧を、森から学ぶリトリートを、
8月に、ここ軽寺でやりたいと考えています。
木に学ぶ
森蔭リトリート
Tree-Retreat
夜半にめざめたとき、背筋が寒くなるような不安を覚えた。
なんだろう?
ひどく悪いことが間近にせまっている緊迫感。
病気や不幸など個人的なことかなと考えたけれど、思いあたるふしがない。
世界恐慌?!・・・
世界戦争!?・・・
フクシマ原発事故は国家を揺るがすほど大きな事件。
いつ崩落するかわからない4号機の危うさを、国が認識していないわけがない。
4~5年後の日本はどうなっているか・・・誰にもわからない。
危機的状況のなか、国は国体をたもつために、国家主義へ向かうでしょう。
そのために、憲法を改変しようとする。
そのために、国家意識を煽ろうとする。
原子力政策の過ちを決して認めようとしない国は、フクシマで顕わになった国民の国家不信を打ち消すために、国民の不安や不満や怒りの矛先を外国へ向けようとするでしょう。マスメディアを統制し、国民をマインド・コントロールするでしょう。
さきほど発表された自民党の憲法改正草案によれば、天皇制について「日本国の元首」と明記、9条については戦争放棄の規定は残したうえで、それは「自衛権の発動を妨げるものではない」とし、「国防軍を保持する」としています。また大規模災害が発生した場合、総理大臣が「緊急事態の宣言」を発して、法律と同じ効力をもつ政令を、内閣が制定できるという条文を新たに設けて、政府の権限を著しく強化しています。3.11以前の草案とくらべると、国家主義へ大きく踏み出した、戦争前夜を思わせるキナ臭い内容になっています。
今日は憲法記念日。
これを機に、憲法論議がはじまるでしょう。
2014年までに、憲法改定の国民投票が実行されるでしょう。
戦いがはじまる。
戦わなければなりません。(戦いという言葉を、腸内の悪玉菌と善玉菌の戦いのような意味で、敢えて使わせていただきます。腐敗菌がまされば病気になり、発酵菌がまされば健康になります。)
戦いは厳しいものになるでしょうが、最後には平和が勝利します。
自分を日本国民であると思うなら、軍隊に守られた平和を選択しようとするのもわかります。でも世界はいま、バラバラのカオス的国家群から調和のとれたひとつの地球社会へ、シフトしようとしているのです。日本国民であるより地球市民であると考える人たちは、武器を捨てた平和をもとめて、憲法九条を大切にするでしょう。
国家主義によってもたらされた地球環境破壊や戦争の問題は、国民マインドから地球市民マインドへシフトすることによって解決します。
憲法九条を護る戦いを通して日本は国家パラダイムから地球パラダイムへシフトするさきがけとなるでしょう。
フクシマでこれほど大きな苦難を経験したのだから、自然回帰(grounding)する文化のモデルにもなるでしょう。
それが日本のはたすべき役目です。
憲法九条を捨てて軍隊を持ってはなりません。その先には戦争しかありません。
古く暗い国家主義の穴のなかに戻ってはなりません。それは戦争前夜の闇です。
光はハワイを通ってやってきます。夜明けの光は日本からさし始めるでしょう。
これからはじまる戦いでは、地球市民意識の目覚めによって、平和憲法が護られるでしょう。それによって地球市民が自信をもち、力をつけて、原発の廃止、核の廃絶に向けて前進するでしょう。
地球はひとつ。
国家は地球社会の一部です。
国家の連合によって地球社会がつくられるのではありません。
私たちは日本国民でもありますが、それよりも地球人(global people)です。
日本人なら軍隊を持つかもしれませんが、地球人に軍隊は無用です。
ここが古い時代意識と新しい時代意識のマインドセットのちがうところ。
古いマインドのまま、軍隊をもって、その上で戦争をしないというのでなく、軍隊のない地球社会をめざす地球市民文化が、いま日本から、誕生しようとしています。
ヒバクしたすべての生きものたちへの懺悔の気持ちをこめて、なんとしても憲法九条をまもりたいと思います。
母を見送ってから一週間あまりたちました。
95歳の大往生ですから、まるで門出を祝うセレブレーションのようでした。
母の背をさすり、足をさすりながらいつも見ていた阿蘇山に、今日は来ています。
山から街の出来事をふりかえると、なんだかまだ夢を見ているようです。
人、山を見る
山、人を見る
これは山尾三省さんが和田重正さんの言葉として詩に書いたものですが、中国の詩人の「青山運歩す」という言葉に似て、古来賢人たちは、山から人を見る目を備えていたようです。
「山、人を見る」とはどのようなことでしょうか?
“Thinking Like A Mountain”というタイトルの本がありました。それは自然の側に立って環境問題を考えるという意味でした。でも「山、人を見る」にはもっと深い意味があるような気がします。
息を引きとったあとの母の顔は生まれてはじめて見るような美しい顔でした。それを見て私は、母は光明の世界へゆかれたのだと思いました。
肉体を離れたあと、魂はどこへゆくのでしょうか?
光明の世界への入口は、どこにあるのでしょうか?
多くの先住民たちは「死後、魂は山に帰る」、「先祖たちの霊は山にいる」と考えています。
光明世界への入口は山々の頂きにあるのかもしれません。そして大きな樹々は先祖たちが宿る依り代(よりしろ)です。
そんな思いを胸に私は、3月11日、阿蘇山に木を植えたのでした。
母はそれを待っていたかのようになくなりました。
今その森に立って「山、人を見る」という言葉をかみしめてみると、「山」には、自然というだけでなしに、「先祖たちの場」という意味がふくまれているような気がするのです。
脈拍は生命力そのものです。
脈拍が止まると生命はなくなります。
生まれてからずっと打ちつづけているこの脈拍は、どうやって始ったのでしょう?
母親の胎内で、母親の脈拍が自分に伝達されて、生命の火がともされたのですね。
では、その母親の脈拍はどのようにして打ち始めたのでしょうか?
その母親から、そのまた母親から……と伝えられてきたはずです。
そのように考えてゆくと、私たちの脈動=生命は大昔の先祖たちから、一度も絶えることなく、伝えられてきているのです。言い方を変えると、生命の火は太古の昔から消えることなく灯されつづけているのです。
それよりもっと前のことを考えるなら、生命の脈動は、人類猿の昔から、恐竜の時代から、いや動物が陸に上がる前の海の生き物の時代から、絶えることなく今につづいています。
私たちはけっして独りで生きているわけでは在りません。その永遠の生命に生かされています。
あらゆる生命は、海から波が生まれるように、生命の母体から生れます。
その生命の海が、私たちの「大いなる先祖」です。
肉体の生命がそのようであるように、私たちの魂もまた、海から波がたつように、魂の母体からこの世界に現れます。生命の母体を「地」と呼ぶなら、この霊魂の母体は「天」と呼ばれる存在です。それは大いなる光明の場であるでしょう。
その光の先祖たちは、山の頂から、いつも私たちを見ているのではないでしょうか。
人は大地にささえられ、天の光に照らされて生きている
ところが私たちはそのことを知らずに独りで生きていると錯覚している。
ことに今日の物質文明社会では、自我が強調されて、自分が独りで生きているように思いこんでいます。だから先祖から預かり、未来の子孫へ引き継ぐべき大地を、かくも無惨に切り刻み、放射能で汚染し、それでもなお悔い改めることなく、目先の利益をもとめて原発を再稼動しようとする・・・そんな身勝手なことを平気でやることができるのです。
この錯誤を仏教では妄想と呼び、その社会を無明といい、その罪をキリスト教では原罪というのでしょう。
親を通して先祖に手を合わせ、先祖を思い感謝するとき、私たちは光に通じ、光に照らされます。
そうして山の頂きから自分を振り返って見るとき、無明の闇が晴れて、私たちは「どこから来てどこへ行くべきか」を悟り、新しい文明の道を知ることができるのではないでしょうか。